生没 |
1029年〜1101年。母は内大臣伊周の女。子・経隆の母が葉室親通の女だから、妻の一人だったのだろう。 |
生涯 |
正五位上、大夫将監、大宰少監。菊池一族の「太祖」と称せられる。
藤原隆家第一の郎党で、父と同じく刀伊来寇を防ぐなど覚えもよかったようだ。
1040年、長男の政隆(「蔵隆」や「正高」と表記される)が上洛したのを機会に、政隆に確執のあった肥後前国司藤原定任を四条にて襲撃させた。政隆は長刀と弓矢を用いて3人で襲撃し、定任は肩を射貫かれ翌朝死亡した。
朝廷は大宰府に「政隆を出せやこら」と命じたが、親分の隆家がのらりくらりとかわし、結局は「海上に脱出しちゃった、てへ」とうやむやにしてくれた。
政則はと言うと、1070年、政隆と一緒に大宰府を脱出して菊池へ向かった(太宰府天満宮赤星荘荘官としてとも言われる)。そして深川に館を構え、菊池姓を名乗った、というのがかつては有力な説だったが、もともと菊池出身という説が現在は有力なようだ。つまり、もともと菊池の土豪で、大宰府に出仕して藤原隆家とつるんで力をつけ、そして政則に家系をつないだと。
長男・政隆は暗殺で立場を悪くしたので、家督は末弟・経隆が嗣いでいる。
大宰府から引っ込んだのは正直もったいない気がするが、菊池の名が今でも残っているあたり、怪我の功名なんだろうか。 |
エピソード |
・かつて菊の池ではカエルの鳴き声がそれはうるさかったらしいが、則隆が「かしまし!(じゃかあしい!)」と叱ったら、その後鳴くことがなくなったという。 |
関連史跡 |
○お墓
○お城
・菊之城(深川城)
○お寺
・春日寺(岫雲院) ・円通寺 ・妙法寺
○神社(多すぎて漏れがあるかも)
・春日神社 ・四宮神社 ・羽根八幡宮 ・田口天満宮 ・玉名大神宮 ・神来貴船神社 ・佐保川八幡宮 ・大宮神社 ・河崎天満宮 ・高瀬天満宮 ・梅林天満宮 ・伊倉北八幡宮 ・肥猪熊野座神社 ・本村熊野座神社 ・瓦屋敷熊野神社 ・四山神社 ・老松天満宮 ・山崎菅原神社 ・田口天満宮 ・護此君神社 ・住吉神社
○その他
・菊池氏発祥之跡 |