筑後川の戦い
(大保原の戦い、大原合戦)

場所:筑紫平野南部
 1359(正平14)年7月、一族の主たる面々(武政、武信、武明、赤星武貫ら)、五条氏、草野氏、宇都宮氏、蒲池氏、新田一族らを率いた懐良親王・菊池武光の宮方。
 そして少弐直資、頼泰の一族、大友氏時、筑後の武家方、肥前の松浦・龍造寺・深堀氏などを率いた少弐頼尚の武家方が激突した。通称筑後川の戦いだが、戦場は筑後川以北で行われているので、正確には大原合戦、大保原の戦い。
 兵力は、『太平記』では南朝4万(3000死傷)、北朝6万(2万1千死傷)。もちろん諸説あり。関ヶ原のように一発で決まったのではなく、長期戦中の一戦に過ぎないとも言われるが、以下通説
毘沙門岳城と山隈城
 両軍はまずは筑後川を挟んで対峙した。
 宮方は筑後川南岸の高良山・柳坂・水縄山のに陣をしき、懐良親王は高良山の毘沙門岳城(左上)に本陣を置いた。
 武家方は最初は山隈城(左下:花立山。山隈駅から)に頼尚が本陣を置き、やがて筑後川北岸の味坂庄に移動した。

 宮方は積極的に攻撃を仕掛けようとしたが、敵前の渡河を決行できず攻めあぐねていた。そして武光自ら夜陰に乗じて5千騎で渡河し、夜襲をかける作戦を立てた。

 一方それを感じ取った武家方は、筑後川沿岸より後退し、菊池勢の騎馬隊の攻撃力を封じられる湿地や池沼を利用し、弓矢により攻撃しようと考えた。これには少弐直資や大宰頼泰が反対したため取りやめとなったが、後に大友氏時が後退に賛成したため、後退を再決定した。氏時は恵良惟澄に甲佐方面で痛い目に遭ったばかりで、戦場を走り回っては負けだと考えたという。
 これを聞いた直資、頼泰は、即座に敗北を覚悟したという。
宮ノ陣神社と前伏
 渡河した懐良親王の本陣が置かれたのは宮瀬、つまり現在の宮ノ陣神社(左上)だ。
 少弐頼尚の本陣が置かれたのが大保原の前伏で、現在の東町公園(左下)だ。武光の本陣は福童原とするものもある。

 両軍の距離はかなり接近していたらしく、お互いの旗がはっきり見えたそうな。現地に行けば、前伏と福童原の距離がいかに近いかがわかる。

 亀になって動かない頼尚に対し、武光は古浦城(こうら=高良山の城か、浦ノ城救援に赴いた際に頼尚からもらった「今後菊池にはさからわないよ!」という起請文をチラつかせ、頼尚をキレさせたという。

 武光は武政に300の兵を預けて頼尚の背後に回し、時を同じくして攻撃をする作戦を立案、武政の迂回作戦が始まる。

 なお、史料では武政の記述はなく、兵は18人で夜襲だったとされる。また、関ヶ原のように一発で決まったのではなく、長期戦中の一戦に過ぎないとも。
開戦
 不運にも武政は偵察隊に見つかり、このままでは全滅と見て果敢に攻撃を開始した。それを見た先陣の菊池武明が呼応、16時間に及ぶ激戦が始まった。
 少弐勢は混乱に陥り、頼尚の子・直資を始め、多くの将が戦死した。しかし宮方も武明、赤星武貫を失い、危機に陥った親王を救おうと、宇都宮隆房ら宇都宮一族や新田一族の多数が戦死、親王も重傷を負ったという。戦死説もあるぐらいだ。
 武光もやんちゃな親王を守ろうと奮戦したらしく、馬は射られ17度も替えるわ、兜をたたき落とされて頭を負傷するわで、大変な目にあったという。ということは、写真の馬と兜(左上)はひろいものですか!?

 でもって、戦いの後に武光が川で太刀を洗ったというのが、大刀洗川の由来らしい。なんと場所が特定されているらしく、「伝」だが「菊池武光公太刀洗之碑」が立ち(左下)、ご丁寧に川まで降りることが出来る。ただ、大刀洗公園にも石碑があるので正確にはわからないのだろう。。
 なお、地名が「大」刀洗なのは、登録の際に役人が間違えたかららしい。ズコッ。
その後
 宮方が勝利し、頼尚はまずは花立山へと退却した。この時、武政の放った矢が頼尚の馬を射抜いたが、何とか逃れることが出来たという。
 さらに宝満山へと退却したが、宮方もダメージが大きくも追うことはできず、一度は兵を収めた。後に武光は城武顕の活躍もあり、有智山城の頼尚を追い、大宰府を占領することになる。

 かなりの激戦だったため、戦没者を弔う史跡が数多く残っている。
 武光の弟・武邦が出家して百万遍を唱えたという遍万寺、親王は死んだと言い張る千光寺
 さらには五万騎塚(左)、高卒都婆(左下)、善風塚(右下)などの塚が各地に残る。
 他にも親王が植えたという将軍梅や親王が奉納したという将軍藤の伝承が残る。

 熊本の宇都宮神社には、親王を守って戦死した宇都宮隆房が祀られた。