菊池武敏墓

場所:豊後
 個人の敷地内にあります。あまり大っぴらにされたくないようでしたので、場所の公開は控えさせていただきます(私は教育委員会経由でアポを取って訪問しました)。
 とある民家の裏手の山の中腹にある。武重武光武朝らの墓とそっくりなこの墓は、明治24年建立と彫られているが、どのような経緯でここに建てられたかはわからないという。武敏がこの辺の城にいたからというがはたして?
 低いところには写真左のような五輪塔などがゴロゴロしていることから、元々この付近には寺があったのではないかとも言われている。これらはもともと山の中から出てきたものをここに移したものということだ。もしかしたらこれらの中に本物の武敏の墓があるのかも?なお、「武敏墓」自体も当初はこの低い所にあったのを、中腹に移したということだ。

 このお墓の存在が広く知られるようになったのは昭和54年で、それ以来命日とされる11/17(『新撰事蹟通考』等による命日)に、菊池神社から人がやってくるそうで、多い時は80人もくるそうだ…。
 また、どこで知ったのかたまに人がお墓参りにやってくるという。奈良や高知から来たこともあるらしい。

 さて、五輪塔の付近には写真左のような小堂がある(並び鷹の羽紋が彫られている)。住人であるおじいさんいわく、小さい頃は毎日この小堂を掃除しなければ、学校に行かせてもらえなかったらしい。
 小堂の中には仏像と二つの位牌が納められているが、仏像は盗難にあって一部欠損している。位牌の一つは武敏のもので、今は読み取れないが
「雲竜寺殿九州総督亀山聖任大居士」
「肥後菊池城主掃部助藤原武敏公霊牌 延元二年丁丑十一月十七日死去」
とあるらしい。かなり古そうだ。
 なお、広福寺文書には武敏の延元四年の文書があることから、二年のズレは何なのかが謎として残る。
 もうひとつは
「中納言太宰権帥藤原隆家公霊牌」
とのこと。