玉祥寺原の戦い

場所:菊池市玉祥寺、袈裟尾方面を空撮
 袈裟尾原の戦いとも。玉祥寺で「原」と言えそうなのは写真のあたりぐらいじゃないのかと勝手に推測。川もあるし、戦が起こりそうな気がしないでもない。奥は袈裟尾方面。

 第22代菊池能運は、父・重朝が馬門原での大敗で失った豊福城古麓城の奪回に成功する。その後も隈部氏からの家中主導権奪回を狙い、「隈部退治」と称して菊池重安と筑後勢を率いて玉祥寺原で隈部氏と争った。しかし一族の菊池重政が隈部方に付くなど足並みがそろわず、菊池重安も戦死するなどの大敗を喫し、島原へ逃れた。
 しかし、親父とじいちゃんの菩提寺(写真中央右あたり)の近くで戦争せんでも…。

 当主が不在となった結果、家中「老弱一味同心」で推戴され、宇土為光が家督を継ぐこととなった。
 一連の動きに宇土為光が積極的に関与したと紹介されることが多いが、誤りだろう。

 その後、佐々成政が隈府城を攻めたときも戦場となっている。