多々良浜合戦

碑の場所:福岡市東区多の津一丁目
 京を追われた足利尊氏は、芦屋から宗像に入る。対する菊池武敏率いる軍勢は有智山城に少弐貞経を自害させた。尊氏は機先を制するため南進、武敏も博多に入らせまいと北上し、対峙したのが多々良浜だった。
 尊氏はまず香椎宮、そして陣の越に布陣したが、そこで彼我の兵力差に絶望したという。

「陣の越」から多々良浜を望む
 『太平記』では3万対3百、『梅松論』では6万対1千であったという。川添昭二氏(読売新聞西部本社『西国合戦記』)や平泉澄氏は「武敏がこんな大軍を動員できるとは考えにくく、こんな兵力差は考えられない。ほぼ同じぐらいだっただろうが、苦戦したので菊池勢は大軍だったということにしてかっこつけたのだろう」と述べている。そういうことにしておこう。ということで、以下俗説。

 さて2/27には筑後太田清水の戦い、2/28〜29にかけて大宰府と有智山を占領と、連戦で疲労が蓄積している菊池軍は3/2に足利勢と戦うことになった。武敏直属の兵は疲弊した300、対する足利方には少弐頼尚が父・貞経から預かっていた精鋭500がいた。
 戦の経緯については諸説あるが、まず兄弟が一緒にいてはよくないと直義が先陣を切った。菊池勢は北から向かい風を受け厳しい状況に陥り須浜まで退却を余儀なくされる。
 しかし盛り返し直義を追い込むと、死を覚悟した直義は尊氏だけは逃そうと「自分が時間稼ぎをするから中国に逃れろ」と使者を送った。それに刺激された尊氏含めた足利勢が奮戦し、さらに菊池方から寝返り(松浦党)が出たため戦況は逆転したという。しつこいけどこれ、俗説ね。

 勝利した尊氏は軍勢を率い京都へ進撃、敗れた武敏は追撃を受けるが、三原城猫尾城経由で何とか肥後に帰り着いた。しかし重傷を負った阿蘇惟直の退却は困難を極めた。弟の惟成とともに肥前経由で阿蘇へ戻ろうと試みたが、古湯で療養中に発見され、最後は天山で二人とも自害したとも言われる。

 「花園の森」には戦死者を祀る「兜塚」があり、現在でも木が一本保存され名残を残している。
 東には戦死者のものとされる荒五郎社とやらもある。

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