少弐景資墓

場所:那珂川町大字上梶原あたり
 『蒙古襲来絵詞』にも描かれている、竹崎季長の指揮官。
 このままでは手柄が立てられないと思った季長は、景資にお願いして箱崎の陣を先発し、「先駆けをするから見ててよ!」と言ったのでした。

 文永の役では菊池武房と共に活躍し、副将劉復亨を射て半殺しにし(というのが通説だった)、弘安の役では鷹島で元軍を殲滅するなど活躍。鷹島には像がある…。

 実戦に参加しなかった兄の経資が重用されたため、彼は兄と幕府に反感を持つようになり、霜月騒動で兄と決裂。幕府の命を受けた経資が岩門城の景資を攻めるという、兄弟での戦いが起こった。
 景資は猛火に包まれた本丸で兄を呪いながら自刃したと言う(左上写真が本丸)。

 岩門城の麓に墓(伝)があり、付近の小さな橋には「景資橋」と名前が付いている。