筑後杉城

場所:久留米市御井町の高良山
 別名、住飽城。
 毘沙門嶽城南西の「奥の院」から歩いていったら迷いに迷った。引き返すわけにもいかず、ひらすら西に歩いていると、ようやく曲輪跡らしき平地(左上)に到着した。これが最西端の曲輪だと思いたい。
 そこから東へ進んでいくと、腰掛けられる切り株のある平地(左中)へと到達した。見晴らしも良いし、ここが主郭だろうか。いや、そうであってほしい。
 さらに藪を漕ぎながら東へ進むと、曲輪らしきものが続いている。これは『福岡県の城』の記述と一緒だ。いいぞ。
 半信半疑ながらもさらに進むと、堀切(上)と土塁らしきもの(左下)がある。これもまた『福岡県の城』の記述と一緒で、安堵した。ここでたぶん間違いないだろう。
 さらに後日『福岡県の城郭』を読んだが、間違いなさそうだ。
 元々はここに高良大社があったようだが、南北朝期に移転させられ、神域に高良山諸城の本城として杉城が築かれた。
 菊池武敏はここや東の毘沙門嶽城を拠点に大宰府の少弐氏を攻撃したと言う。後に菊池武光が懐良親王をここに迎え、筑後川の戦いに臨んでいる。今川軍による大宰府陥落後はここを征西府とし、菊池武政、菊池武朝らが抵抗した。
 戦国期には大友宗麟、龍造寺隆信が争奪戦を繰り広げた。龍造寺隆信が沖田畷で戦死すると、筑後平定軍の戸次道雪・高橋紹運がここに陣を布き、猫尾城などを攻略している。